いなうらゆうま ( 稲浦悠馬 )
いなうらゆうま ( 稲浦悠馬 )
仕事には哲学を持ちたい。 たとえばだが、休息に関して。 果たしてどんなタイミングでどれぐらいの休息を取れば最も生産性が上がるのかということは、正直、測定しづらい。仕事の成果というもの自体が、計測の難しいものだからだ。 休みなく働いて、生産性が上がる可能性もあるし、下がる可能性もある。大きく休息をとって生産性が上がる可能性もあるし、下がる可能性もある。 そのバランスの正解は容易には断言できない。自分の感覚に聞いてみるしかない(ような気がする)。 これはもう、信念や哲学の世界だ。「俺の働き方は、こうだ」と割り切って、信じてしまうのが勝ちではないだろうか。 自分のワークスタイルを決めてしまえば、少なくとも「本当にこれで合っているのか?」という迷いとは無縁になり、精神衛生上良いのではないだろうか。 世の中には測定しやすい物事と、そうでないもののがある。測定しづらい物事に関しては「自分のやり方を決めてしまう」のも手だと思う。
映画F1を観た。 「この人、トム・クルーズだっけ?」と思っていたら、ブラッドピットだった。 ブラッドピットがいま何歳なのかは分からないが、もう青年、壮年を通り越して、初老に差し掛かろうかという役柄だ。 相変わらず男前なのだが、しわがれた声で、ちゃっとおじいちゃんみたいに笑う。これがまた渋い。 どんな逆境にありながらも、どこか飄々としており、苦悩の影を見せない。決して余裕をなくさない、荒野のカウボーイだ。 ところでこの映画は - 熱狂のレース - どん底からの逆転劇 - 犬猿の男同士が、最後には絆を結ぶ など、誰もが好きな王道のエンターテインメントが目白押しなのだが、だが茶番にならずに、力強い。 特に全編で繰り広げられるレースシーンは、よくこんな映像を撮ったな!と思うぐらいの白熱のシーンの連続だ。おそらくCGが使われているのだろうが、ほとんどそのことに気づかせない。 この映画を観始めた時には「レースなんて、適切にハンドルを切るだけのスポーツでしょ」っていう感覚だった自分が、観終わる頃には、レーシングといものの醍醐味、熱狂が分かったようなら気がした。
コミュニケーションにはディスコミュニケーションがつきものだ。 あなたはどの程度、ディスコミュニケーションに対して敏感、もしくは鈍感でいられるだろうか。 人と人が話す時に、100%完全に意味通じるということはない。100%完全に気持ちが通じるということもない。いつだって多少なりのもこぼれ落ち、すれ違う部分がある。 むしろコミュニケーションというのは、ひたすらにその連続では無いだろうか。ディスコミュニケーションと、その修正の連続で成り立っている。 このディスコミュニケーションに対する感度も人それぞれ、状況次第だと思う。 おおむね話が通じていれば良しとする人もいる。そもそも話がすれ違っていることにさえ気づかないこともある。 その逆に、ディスコミュニケーションに対して敏感で、誰と何を話しても「まるで伝わらない」と思う人もいるだろう。 たとえば、アーティストの尾崎豊はアルバム「壊れた扉から」の中で「何もかもが違う」と叫んでいた。雑誌のインタビューでも「どんな人が僕の歌詞を解釈しても、どれもこれも違う」的なことを語っていた気がする。 「人に話が通じてない感覚」というのは、なんとももどかしいもので、コミュニケーションに関してフラストレーションを感じながら生きることになる。これを重く言えば、人間同士の相互理解への絶望だ。 人間歳をとると、ディスコミュニケーションに対して寛容さが身についてきて、たとえ多少話がすれ違っていても「ひとまわりしてOK」のような感覚になってくる気もするのだが。
王が死ぬまでにピラミッドを作るゲーム。 パズル要素とサイコロの運要素がある対戦型。 2016年に発売されたオインクゲームスのシリーズで、ルールはやや荒削りなものの、コンパクトなパズルゲームとして楽しめる。 サイコロを振ってピラミッドを建設していき、一番大きくて綺麗なピラミッドを作った人の勝ちだ。 手軽に遊べてなかなか楽しい。 パズルといってもすごく複雑で頭を悩ませるわけではなく、適度に「ああでもない、こうでもない」とピラミッドを建てていくのが楽しい。 ピラミッドを作る時のルールはやや複雑だが、そこさえ突破してしまえば。 ちなみに「王の命」の四角いタイルは、ルール通りの枚数だとちょっと少ないので、何からの形でもう少し命が続くようにルール変更して遊んでも良いかもしれない。 例: てきとうな四角形のタイルを使って命を増やすとか、ダイスで命が同時に3個以上出たら、振り直すとか。
最近、本はずっと電子書籍で読んでいる。 だがこれだと読むラインナップが偏るので、たまにリアル書店にも立ち寄って、興味のある本を探すのだ。 そして見つけた本を、僕は書店で買うのではなく、電子書籍で買ってしまう。今日も19冊ほどをポチポチとAmazon Kindle で購入した。 これは罪なのだろうか。なぜならこの買い方だと、書店には1円の売り上げも入らない。告発されたら懲役が課されないだろうか。 書店に貢献するために本を買っても良いとも思うのだが、ペーパーブックを買うと、僕はその物質的な儚さに耐えきれずに、すぐに電子書籍版を買ってしまう。なのでペーパーブックを紙の方はすぐに読まなくなる。 なので行き着くところは、最初から電子書籍版を買うことなのだ。 ならば電子書籍の世界でだけ生きていれば良いと思うかもしれないが、そうもいかない。なぜならAmazonのおすすめだけを眺めていても、存在に気づけない本がたくんあるのだ。やはり面白い本を見つけるためには「リアル書店」も併用しなければいけない。 僕の場合、リアル書店は本を買う場所ではなく、本を見つける場所として機能している。こんなユーザーのために、店頭に募金箱でも設置しておいてくれないだろうか。
Kindle Paperwhite という電子書籍端末があり、ふだん僕はこの端末を愛用している。 これをなくすと非常に困る。途方に暮れる。 なぜなら目の前に読むものがないのだ。本が手元にない時の不安感、落ち着きのない感じ。 あなたがもし読書家ならば、この気持ちを分かってくれるだろう。 今日も映画館で朝から「アメリカッチコウノトリと幸せな食卓」を観た後に、スターバックスに入って何か本を読もうと思ったら、Kindle がないことに気づいた。 おそらく家に忘れてきたのだろうが、こんな時、どうすれば良いのか。 何か本を読まなければいけない。僕は近くにあった別店舗、蔦屋書店&スターバックスのブックカフェに場所を移して、いくつかの本を手元に置いた。 これで一安心だ。 スマホや、家の鍵や証明書類、クレジットカードもなくすと焦るが、それよりも「本が読めない状態」というのは焦る。 スマホのKindleアプリでも本を読むことはできるが、なんだか違う。スマホで読むのは僕にとって読書とは別物の何かなのだ。
刑務所の塀越しに紡がれる奇妙な友情の物語。 主人公はアメリカ人なのだが、スターリン時代のソ連の刑務所に入れられてしまう。 その独房には窓があり、向こうの建物には人が暮らしている。窓越しにその生活が見える。 主人公はその暮らしを眺めることを日々の癒やしにして過ごすのだ。 向こうに見える家の主人は、奇しくも、主人公が囚われている刑務所の見張り役の男であった。 主人公が日々男の暮らしを見ていると、ある日、男は楽しそうに妻と過ごし、ある日、男は大勢の家族と過ごし、ある日には、男は妻といさかいを起こし、妻は家を出て行ってしまう。 こうして暮らしの全景を眺め続ける主人公。 あるシーンで「僕は君より君のことを知っている」とつぶやく。 人間とはそのようなものかもしれない。 自分たちの生活をクローズアップで見ている本人よりも、ロングショットで見ている主人公の方が、男のことを理解しているのだ。
人からこう言われたことがある。「いなうらさんは知的好奇心の塊みたいだ」と。 自分ではそんな意識はなかった。 むしろ自意識としては、好奇心が極限に薄く、世界のあらゆる物事に対して関心が薄いさえ思っている。 だがふと思うと、前の土日は本を30冊も買った。書店で色々な本を眺めていると、あれも読みたい、これも読みたいと無限に欲しい本が見つかり続けるのだ。 言ってみたら四六時中読書していたいし、読書していられるし、実際にしている。 こと読書というものにかけては、僕の知的好奇心は極めて高いかもしれない。 だが、世界のあらゆる物事に関心を抱くわけではない。むしろ99%の物事には心を動かされない。 グルメではない。YouTubeは見ない。スポーツも見ない。洋服もこだわらない。デジタルゲームはしない。 世の中には楽しめる物事がとても少ないように思える。 子供の頃のような、あらゆる物事に関心を抱く好奇心ではなく、自分の好きなものに集中して好奇心を抱く。大人になってそんな風に変わってきたのかめしれない。
読書は救済だ。 読書している間は、思い悩まなくて良い。 読書をしている間は、目の前の文章に集中している。思い悩む暇がない。 それの読書をしている間は、自分の悩みに対しての答えに近づいているという安心感がある。 それに読書をしていると、自分の頭で考えなくとも、他者が勝手に物事を考えてくれる。とても楽だ。 こうして自分では思いつかなかったような考えにたどり着くことができる。 人間、自分ひとりだけで考えていると、考えは袋小路にはまりがちだ。だが読書によってこの自分だけの狭い視野を離れて、別の視点に立てる。 ショーペンハウエルはまさに、読書のこの効用に警告を鳴らしていた。読書をすると、自分自身ではなく、他人の借り物の言葉で考えることになってしまうと。 だが、その危険を承知で有効利用する分には、悪くないんじゃないか。 ところで目で本が読めない状況でも、耳でオーディオブックを聞くと心が落ち着くことにも気づいた。 どうやら言葉を読む、聞くということ自体に癒し効果があるみたいだ。