いなうらゆうま ( 稲浦悠馬 )
いなうらゆうま ( 稲浦悠馬 )
日常を過ごしていると、ブログに書きたいと思うテーマが、頭をよぎる。だがそのほとんどは、書かないままで終わる。 思いついたタイトルをスマホにメモするが、中身の文章までは書かないことが多い。 あるいは、いざ文章を書き始めるものの、内容がまとまらなかったり、気に入らなかったりしてやめてしまう。 時には、文章が完成したにも関わらず、投稿しないまま時間が過ぎて、熱が冷め、違和感を感じ、やめてしまう。 こうして思うと、文章という形で残せるブログ記事は、思いついた数の中でほんの一握りに過ぎない。 残りのほとんどのブログは、頭の中だけで流れ去り、空気中に消える。この世界では、文章になっていない文章が大半を占めるのだ。
40歳というのは難しい年齢だ。 人生が80年だとすれば、その折り返し地点にあたる。 人間40年間も生きていれば、多少の能力や、生きる知恵を身につけているものだ。 だがそれと同時に、今度は自分の年齢というものが大きなハードルとしてそびえ立つ。 40歳であれは、40歳なりの能力、知恵があって当たり前だ。 人生の中でコツコツと積み上げてきた、自分の経験や、知恵。その積み上げを思うと、ちょっと自分が誇らしくも思える。 だが「自分の年齢にふさわしいか?」と問い始めると、一気に自信がなくなる。 たとえば「40歳なのに、この程度の読書能力しかない」とか「40歳なのに、この程度のキャリアしか積めていない」とか考えてしまう。 そう、人生とは、プラスが必ずしもプラスではない。常に自分の年齢とのレースをしているのだから。人生にドヤるため、自分を自慢に思うためには、自分の年齢を追い越さなくてはならないわけだ。 これはなんだか有害極まりない考え方だと思いながらも、年齢の呪縛というものはある、というか、勝手に呪いを作り出してしまっている。
「デスノート」の作中でキラは、人類を良い方向に導くために、凶悪犯罪者たちを殺して行く。 その影響で世界の犯罪率は激減し、戦争もほとんどなくなった。 ではキラは救世主であり、正義なのだろうか? まるでそうかのように思わされる。 ただこの救済には大きな穴がある。 ひとつは、キラが死んだ後の世界が考慮されていないこと。 キラが寿命や不慮の事故などで死んだ後、世界はどうなるのだろうか。キラへの依存度が高ければ高いほど、キラを失った後の世界は立て直すのに苦労するのではないだろうか。 つまりキラによる支配はサステナビリティに欠ける。 もうひとつは、冤罪の可能性だ。犯罪者だと報道された人間が必ずしも本当に犯罪者だとは限らない。キラの支配はマスコミ報道に依存しており、間違って善人を殺してしまう可能性は高い。 となれば、悪人は必死に善人を冤罪に仕立て上げようとするのではないだろうか。もしくは、マスコミを牛耳る者が間接的に世界を牛耳るか。
話すのが苦手だ。 どう苦手かというと、人に話そうと思うことの90%ぐらいを、心の中で却下してしまう。 「この話題は失礼かもしれない」「この話は盛り上がらないかもしれない」などと憶測して、勝手に差し控えてしまうのだ。 どうせ人と話すのであれば、意義のある話、自分や他の人が面白いと思える話や、まとまって蘊蓄に富んだ話や、スパイスの効いた話がしたい。 だがそう考えすぎると、なかなか「どうでもいい話」ができなきり 実際に口に出して話すのは、思いついた事柄の、恐らく10%程度以下だ。もっと少ないかもしれない。 思いつくことをそのまま口に出せる人が羨ましい。もしくは、他者への配慮のフィルターをかけつつも、ちゃんと言葉を口にできる人が羨ましい。 自分でも最近では、なるべく心のフィルターを弱めて喋るように努力はしている。たとえ話が盛り上がらなくても、まとまりがなくても、まずは話してみることが大事だと思って。 話が上手くなりたい。
僕が子供の頃、小説を読み始めたきっかけは、お金のコスパが良いからだった。 最初のきっかけはアニメだった。 テレビの深夜放送で観たアニメが、また観たくなって、レーザーディスク(DVDのような映像媒体)を購入したのだ。 だがアニメたった数話分見るために、1枚6000円ぐらいするレーザーディスクは、子供には値段が高すぎるのだった。 なので次に、漫画に手を出した。漫画はアニメのように絵は動かないし、色もついてないが、アニメほどのお金はかからない。1話分を楽しむのにかかるお金は圧倒的に安い。 だが、漫画もすぐに読み終わってしまう。たくさん読もうと思うと、それなりにお金がかかる。全然お小遣いが足りない。 もっとお金を使わずに良く楽しめる方法を見つけたのが、小説だった。 小説は1冊で漫画の10倍以上は楽しめる。小説には色どころか、ほとんど絵さえないのだが、不思議なことに文章を読んでいると、頭に絵が浮かぶ。 それになんだか本を読んでいると、自分が知的になったような錯覚も得られる。 (中学生の頃、何故か同級生に「本を読んでるなんて偉い」と言われた) お金もかからない、頭にも良い、こんなに良い趣味はない。 小説を読むということは。
Kindleなどの電子書籍で、漫画のカラー版が出ていることがある。 これは連載当初はモノクロ版だった漫画が、その後、カラー化して再発売されるものだ。 ジャンプ系の漫画に多い。 色をつけているのは作者ではなく、おそらく専門の彩色チームのようなものがあるんじゃないだろうか。 漫画によってはこのカラー版は素晴らしい。たとえば「ジョジョの奇妙な冒険」のカラー版は、原作の良さをより引き出している。 逆にいまいちなカラー版もある。たとえばGANTZのカラー版は、原作が元々モノクロ的な世界なゆえに、カラーではあまり引き立たない気がした。 カラー版の存在には功罪がある。それは、まず読者がどちらの版を買わなければいけないか、迷いが生まれることだ。 漫画ごとに、モノクロ版とカラー版のどちらを買うかを判断しなくてはいけない。 カラー版の発売はモノクロ版よりも遅いので、最新話を読みたければモノクロ版を買うしかない。遅れてカラー版も読みたければ、二重購入が必要だ。 こんなことも起こる。モノクロ版で買い始めた漫画で、途中からカラー版が欲しくなった時は、カラー版を改めて買い揃える必要がある。 もしくは、途中まではモノクロ版、途中からはカラー版という中途半端な買い方になってしまう。 つまり判断を迷うと、シンプルにお金がかかるし、電子書籍のライブラリも歯抜けで中途半端なことになる。 なかなか罪だと思う。
Amazonではたまに、漫画の50%オフセールをやっている。 ( キャンペーン対象の漫画が、ポイントバックで実質50%オフ ) 読みたかった漫画を揃えるチャンスだ。 何を買うべきか?買わざるべきか?を悩みながら、最近のセールで、いくつかの漫画シリーズを買った。 - ジョジョリオン カラー版全巻 - ドラゴンボール全巻 - NARUTO 20巻分 - GANTZ 全巻 - 天上天下 カラー版 全巻 - デスノート 全巻 - HUNTER×HUNTER 買いそびれていた10巻分ほど - ワンパンマン 10巻分...
デジタルの世界にも潔癖症はある。 僕は電子書籍のKindleでよく本を読むのだが、下品な表現や下ネタが出てくる本があると、なんだかライブラリ全体が汚れたような気がする。 なのでKindleのライブラリから完全に削除してしまうこともある。 たとえば大槻ケンヂや星野源のエッセイは面白いのだが、下ネタも書かれているので、そこだけ少し嫌だったする。
iTunesで吉川晃司のアルバムを5枚ほど購入した。あわせて1万円ほど。 iTunesというのはアプリ上で音楽を曲単位、アルバム単位で購入できるサービスだ。 いまどき、音楽は1個ずつ買わなくても、サブスクでなんでも聴けるのに、なぜ? 買った理由はアーティストの応援だ。 昔は好きなアーティストの新作CDが発売されたら、もちろん買っていた。1枚3000円ほどを支払っていた。 だが音楽のサブスク時代が訪れて、音楽を買うということがなくなった。気づけば自分も、ファンのはずなのに、最近音楽に直接お金を払っていないことに気づいた。 これはファンの名折れである。 なので、全く使う予定のないiTunesで1万円ほどを支払った。 何回もライブに足を運ぶ熱心なファンに比べたら微々たる金額だが、「実質、何も得ていないのにお金を払う」という尊い行いをしたので、それは褒められる点だろう。たぶん。 CDを買うのとどちらが貢献度が高いのかは分からないが、CDはそもそも自分がプレイヤーを持っていないし、再生できない。CDは物理的にもスペースをとるので、その制約のない、デジタルでの音楽の買い切りという形を取ったのだった。
文章を書くのは、コスパが悪い。 ここでいうのは、ブログに文章を書くというような、誰に宛てたわけでもない「創作物」としての文章のことだ。 文章を読むのであれば、自分のペースで速く読むこともできるし、時間単位で接触できる文字数は多い。 だが書く時は、よく考えなければいけない。ひとつの物事を言い表すのにも、自分の頭と格闘しながら、行きつ戻りつしながら書く。時間あたりに処理できる文字数で言えば、読書の数パーセントにも及ばない。 そもそも、そんな風に読む時の文章量と、書くときの文章量と比べるのはおかしな話なのだが、なぜか「時間あたりのコスパが悪い」という感覚が、僕にはある。 文章を書くぐらいであれば、読書をしていた方がずっと得なのではないかと思える時がある。 読書に限らず、他の事柄でも同じ現象はある。 たとえば漫画は、描くのには大量の時間を使うが、読むのは一瞬だ。アニメ映画 「ルックバック」にも主人公がそんなことを言うシーンがある。 たとえばどれだけ時間をかけて作った料理でも、食べるのは一瞬だったりする。 世の中のあらゆる「作る」は、コスパが悪いのかもしれない。 そうやって労力をかけて文章を作り上げても、まず、自分以外の人はほとんど読まない。 やはり文章を書くのはコスパが悪い。 コスパを第一にする人は、やめた方が良いだろう。 ( ちなみにこの文章に締めを考えるのにも、ああでもないこうでもないと言って、かなりの時間がかかってしまった。ああ、やっぱりコスパが悪い)